和辻哲郎の少年時代
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不定期で和辻の少年時代を綴った「自叙伝の試み」を歩く取り組みとして紹介していきます。
文責:熊谷
和辻哲郎の子ども時代の自然体験
里山ガーデンの最寄駅はJR播但線仁豊野駅です。仁豊野出身の哲学者として和辻哲郎が有名です。和辻が子どもの頃遊び自然体験したであろう里山の一つとして里山ガーデンをとらえ、幼少期の自然体験を取り上げてみます。
はりま里山研究所の管理する「里山ガーデン」は、香寺町須加院姫ヶ丘にあります。このあたり一体の山は、かつては村人などが薪木を調達したり、山菜を採集するために管理されていました。また、須加院の隣まちの仁豊野(にぶの)は、かの有名な和辻哲郎の生誕地であり幼年期に野山を走り回った故郷でもあります。ここでは、「和辻哲郎と里山とのかかわり」という視点で、関連資料をご紹介させていただきます。
「子どもの頃に自由に遊びに入ることの出来た場所で松茸の生えたのは、鎮守の森の境内だけであった。[・・・] この鎮守の森から南の方へ、幅12町の松や雑木の林が、34町位続いていた。それはもと村の水田を西方の山の水や砂から護るために作られたものであったかもしれない。今はすっかり開墾されて畑地になっているが、そこが松林や雑木林であった頃は、風致の上からも非常に好かったように思う。」
「自然物の採集と言ってもわたくしの場合にはつくし、わらび、茸と言うように植物が主であって、虫や鳥や魚などには及ばなかった。虫や鳥を飼う技術も、魚を捕える技術も、わたくしには傍で見る機会がなく、従って親しく見習ったこともない。」
「竹馬や根ッ木(*)は手製のおもちゃであったが、そのほかのものでも、出来る限りは手作りにした。その製作の時の楽しい気持ちの方が、そのおもちゃで遊ぶ時よりも、反って強かったように思う。」
「師匠がいない代わりに、自然が直接に師匠の役をつとめてくれることもあったからである。こまのことに関連していえば、こまを廻す技術ではなく、こまを作った経験が、それもどんぐりを取って来てこまにした経験が、松井源水風のこまの技術に接するよりも、遥かに多くのことをわたくしに教えてくれたと思う。それがどんぐりの採集と連関していなければこれほどなつかしい思い出になることはなかったであろうし、それがこまを作るという働きと結びついていたのでなかったならば、あれほど熱心にどんぐりを追いかけ、どんぐりに加工するということもなかったであろう。」
「竹馬、根ッ木、どんぐりの独楽などのほかに、なお自分たちで作ったおもちゃがある。鞘から抜くことが出来る刀などもその一つである。」
「やがてこの田圃に蓮華草が生い出て、一面に緑の絨毯のように見え出す頃、その上へ行って転がって遊ぶと、本当の絨毯のように弾力のある感じがしたものである。」
「村の子どもの日々の生活は、舶来の文明や舶来の品物とはあまり関係なく、依然として伝統的な、自然との連関の中に根をおろしていたように思う。」
『自叙伝の試み(中公文庫)』より
*鎮守の森 泡子八幡神社 JR仁豊野駅から里山ガーデンのある姫ケ丘住宅地へ向かう時、住宅地入口付近にあり、訪問の際の目印となる神社
*[根ッ木] 子供の遊びの一。端をとがらせた木の棒や釘などを地面に交互に打ち込み、相手のものを打ち倒したほうの勝ちとする。ねっきうち。ねっくい。(インターネット大辞泉より)
仁豊野駅前の石碑
以上の回顧録からは、和辻少年が人々の生活と自然との間の深いかかわりを肌で感じていたことがうかがえます。 深い洞察力をもって、客観的に人々の生きる姿をみていた少年の姿が想像されます。この幼年期の体験が、その後の自身の物事への見方や学術創作活動に深層で影響を与えていたかもしれません。
著作『風土』では、「人間」と「自然」を個別に論じるのではなく、人間の生活、思想、文化、気候など相互の関係を考慮しながら全体として論じる新たな哲学の創造に挑戦しています。風土論については賛否両論があり、環境決定論という批判もある一方で、積極的に評価する研究者(例えば、オギュスタン・ベルクなど)もいます。
最近、環境教育の分野では、幼少期に自然の中で遊ぶことの重要性について注目されはじめており、和辻哲郎の著作にも新しい視点で再び触れてみるのもいいかもしれません。
(文責:黒田修司)
参考文献:姫路文学館編(1991)和辻哲郎の世界.姫路文学館.
姫路文学館編(2004)あの日の子どもたちー播磨の文人たちの少年時代.姫路文学館.
和辻哲郎(1992)自叙伝の試み.中公文庫.
和辻哲郎(1979)風土論—人間学的考察.岩波文庫.
生家跡に立てられた石碑
付近の観光地図
姫路中学時代の和辻哲郎(左)と兄龍太郎
出典:姫路文学館編「あの日の子どもたち」
日本を代表する哲学者・和辻哲郎は、兵庫県姫路市仁豊野の村医者の家に生まれました。若き頃の和辻哲郎は、姫路の京口近くの高等小学校(現在、城東小・東光中学校があるあたり)から姫路中学(東光中学あたりあった。現・姫路西高校の校舎への移転は大正8年)を卒業するまでの5年半の間、仁豊野の自宅から一里半(約5.9km)の道を徒歩で通学していました。
長距離通学の時期は、村の子どもとは遊ぶ暇がないくらい勉学に励んでいたと回顧していますが、高等小学校入学(10歳)までの幼年期には、仁豊野の村の子どもたちと一緒になって田畑、川、森、雑木林でいろんな遊びをした思い出を晩年になって懐かしんでいます。以下の文章は和辻哲郎の幼年期の自然の中での体験(原自然体験)をつづった文章です。
明治から昭和初期の地図を参照