自叙伝の試みを歩く2

1.鎮守の森と姫ヶ丘住宅地の開発(自叙伝の試みより)

 和辻の少年時代の思い出の中に鎮守の森(八幡神社)の話や村の祭りの笛太鼓の音、神社に宮入りする屋台の話が語られています。鎮守の森の北に広がる里山は官有林で当時は村のものではなかったため入るのをためらっていたと書かれていますが、この泡子八幡神社は仁豊野の北西にあり、官有林であった姫ヶ丘住宅地に入る道沿いに位置しています。仁豊野は寛永3年(1626)本多美濃守が開発を進めた所で、寛文5年(1665)に本殿を建立し八幡神を勧請し、明治7年(1874)2月村社に列せられています。大正10年(1921)には本殿が改築された。江戸時代、市川沿いには舟運送による荷物の陸揚げも行われ、渡船用の渡橋籠が23個もあったと伝えらています。神社内には享保元年の石燈籠一対、明治2年(1869)の手水石、大正8年(1919)の石鳥居があります。和辻の子ども時代にはこの石の鳥居は無かったと思われます。鎮守の北の官有林は和辻の少年時代からそれ以前の濫伐ではげ山に近い状態であり、国による砂防工事が行われていたと書かれています。明治時代の六甲山と似た様子がここでもあったと思われます。

泡子八幡神社の入り口には姫ケ丘住宅地の開発の由来を書いた碑文が残っています。祭りが近づき、シデ棒が飾られています。 

階段を上ると神社本殿がある。

神社の中に建てられている開発記念と書かれた碑文には表新坂の37町歩(37ha)が国有林であったこと、大正2年には砥堀村が払い下げを受けたこと、昭和8年の姫路市への合併編入で姫路市の所有となったこと、戦時中に軍需工場の疎開地となったこと、昭和29年に会社が山林の処分を行う際に開発組合を作って買受て、山林開発を行ったこと、昭和35年に住宅地として開発されたことが記載されている。この地が仁豊野の住民にとって鎮守の森の北に隣接する大切な場所であったことが伺える。明治30年頃の和辻の少年時代にはまだ仁豊野地域の山林にはなっていない。

注:表新坂一帯は現在の姫ケ丘住宅地を含んでいる、ここが香寺町となった由来は不明であるが昭和40年には住宅地開発された姫ケ丘に16戸があった。昭和36年に開発記念碑ができているが昭和38年には仁豊野の住人が宅地造成の許可取り消しを求めて地裁に訴えたとの記録もありいきさつはよくわからない。

自叙伝の試みでは屋台が担がれて田んぼの間の道を神社に向かって進んでいく過程でバランスを崩したりする様子が描かれています。屋台には2人の稚児を乗せ、両側から太鼓をたたかせながら「ヨーイヤサー、エーイヤサー」という掛け声をかけながら村中を練って歩きます。この祭りの風景は今でも残っています。この写真は鎮守の森に向かう道のわずかになこった田の様子です。今はこの田んぼの多くが埋められて住宅となり、かつての姿を想像することが難しくなっています。

 

なお、開発記念碑は以下のことが刻まれている(一部省略)

昭和三十六年五月
  開発記念
表新坂山林三十七町余歩は
古来国有林であったが大正
二年十月砥堀村が村有財産
として国より払い下げを受け
昭和八年四月同村が姫路市
に合併する共に同市の所有
に移った同十七年当町は
食糧増産の為開墾地として
市に払下げ方を申請したが
太平洋戦争は益々殲烈を加
へたる為同十九年四月市は
須鎗軍需会社に工場疎開地
として同社に払下げられた
其後同二十九年同会社が此の
山林を処分することを知っ
て当町の買受希望者九十
六名は同三十年一月買受け
山林開発組合を組織して山
林の開発を決議す爾来組合
長は一意専心開発に精魂を
傾けること数年遂に同三十
五年五月住宅街として開発
され仁豊野町を中心に大姫
路市北部発展の礎石とし
て町待望の目的を達成した
ここにこの地が住宅地とし
て発展した機会にこの碑を
建てて永久に記念する