自叙伝の試みを歩く3

1.和辻の生家とお寺(自叙伝の試みより)

 和辻の先祖がいつ仁豊野にやってきたかというルーツに関わる記述も自叙伝の試みに見る事ができる。聖徳太子ゆかりの揖保郡太子町にある鵤から東南400-500mにある東南という集落が里で、寛政年間に仁豊野に出てきたようである。さらにその先の話として大和から来たという話が出ている。 最初の家は安政の頃に大火にあって丸焼けになり、それ以後に建てられたところに住んでいたようである。少年時代の思い出の家屋は建て替えられて今はほとんど残っていない。少年当時の家の中の様子を詳しく記載しているが感心してしまう。当時、和辻の父は自宅で診察をしていた。お寺に通じる塀と門は当時のままかもしれない。写真にある和辻生家の碑は国道312号線に沿って建てられており、国道から西に入る道の先にお寺があり、屋根が見えている。

 

石碑には「春の来た日に和辻哲郎ここに生まれる」と刻まれている。明治22年生まれである。

和辻iを記念する石碑の裏には由来が書かれていて平成4年に仁豊野自治会、姫路市文化振興財団により建立されたとある。

 

和辻生家前の道突き当りに浄土真宗本願寺派の明正寺がある。自叙伝の試みには1歳下のお寺の子とよく遊んだとの記載があり、場所的にもごく近所である。

 

和辻哲朗のことでは和辻哲朗文学賞の事業を行っている姫路文学館を外すことはできない。

文学館は企画展「あの日の子どもたち ―播磨の文人たちの少年時代」を行っていて、和辻の足跡も紹介している。

 お寺の南側の道を西に行くとすぐに仁豊野駅に突き当たります。播但線の前身となる播但鉄道は1894年(明治27年)7月26日 姫路-寺前間が開業、翌年4月7日に当初計画の飾磨-生野間が全通した。和辻が小学校に上がる少し前に鉄道が通り、その工事中の鉄道内での遊びとか喧嘩の様子が描かれている。当時の旧制姫路中学もこの播但線の京口駅付近にあり、鉄道通学ができる環境にあったが、鉄道の便数が少なく、通学に使うため時刻を合わせるという考えもなかったため歩いて通った。ただ大日河原での逆立ちと骨折により回復して暫くの間は学校に認めてもらって汽車通学をしたようである、

駅前には自治会が建てた小さな石の案内標識があり、これも平成4年春にできています。この駅舎は昭和3年に建てられた様です。