自叙伝の試みを歩く1

1.仁豊野用水と磨崖題目碑(自叙伝の試み わたくしの生れた村より)

 和辻の生まれた姫路市仁豊野(兵庫県神崎郡砥堀村仁豊野)は市川の右岸にあたる農村で北には笠形山を望み、この市川が北東から左岸の甲山(山中には甲八幡神社があり、西には姫路市の水道資料館・水の館があります)をかすめて流れ込み私の活動地となっている姫ケ丘住宅地の北東端にある松の鼻とよばれる山の端(山の尾根の突き出た所)にぶつかって南に流れを変えています。市川はさらに砥堀駅の南あたりで山にぶつかりその流れを西の方に振ります。和辻は少年時代に自宅のあった仁豊野から松の鼻まであたりの川を泳ぎ、遠くに笠形山を仰いで見ていたと書いています。

須加院口にある市川の親水公園より南を望んでいます。仁豊野橋が、左岸には兵庫製紙の工場が見えています。 

須加院口の親水公園より北を望む(写真右手の左岸には甲山と水の館、右岸にはネスレの工場、工場の南には姫路バラ園)

同じく親水公園から西を望むと松の鼻が迫っています。この狭いところを国道312号線とJR播但線が走っています。


 さて仁豊野の農地に必要な水は市川から直接得ていたのではなく、支流である須加院川から用水路を引いていました。松の鼻の用水路は松の鼻のすぐ際を流れていて磨崖題目碑が残っています。その題目碑の説明によると天和元年(1681年)に磨崖題目が彫られたとあり、仁豊野用水の工事のため松の鼻を削る工事をした20年ほど後とのことなので、用水が通って農業が本格的に始まり、仁豊野の村の形ができ始めたのは1661年頃となるでしょう。


松の鼻の際に磨崖題目の由来を書いた説明の看板が上がっています。 


背後の岩に字が彫られているのがわかると思います。灯篭は同じく1682年頃、五輪塔が1761年、墓塔が1844年(放駒 力士?)。前に流れているのが仁豊野用水です。

仁豊野用水は松の鼻の際を南の仁豊野に向かって流れ、暗渠に入っていきます。

用水路は仁豊野の中に入って分かれて水を運んでいく。下の写真は市川の堤防から近くの南北に流れる用水路である。この用水路は大きく南北に3列流れていてその両脇に人家があったと和辻は記載している。和辻も書いているが、仁豊野の農地は南北に細い形をしていて圃場整備をしたような感じを受ける。農地がアパートに変わった時もこの細長い形が残っていて興味深い。